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世界史の中の東洋史・日本史

 日本の歴史は日本列島内に閉じたものではありません。 中世までは東アジア情勢の影響を受け、近世(大航海時代)以降は、世界全体の趨勢により国内の方針が左右されてきました。 そのような観点を踏まえ、本ページでは、日本史、東洋史そして世界史の繋がりを13のストーリーとして整理しました。

◆シーン1 劉邦が生んだ仏教伝来
◆シーン2 晋の崩壊が生んだ高句麗
◆シーン3 百済による仏教伝来
◆シーン4 絶妙な対隋外交
◆シーン5 隋唐と任申の乱
◆シーン6 渤海建国がもたらした遣唐使再開
◆シーン7 藤原道長の奔放人事が活きた刀伊撃退
◆シーン8 日宋貿易で栄えた平清盛
◆シーン9 モンゴル襲来が倭寇を生んだ
◆シーン10 大航海時代がもたらした鉄砲伝来
◆シーン11 ルターがもたらしたキリスト教伝来
◆シーン12 ピューリタン弾圧が招いた日本開国
◆シーン13 南北戦争と明治維新


◆シーン1 劉邦が生んだ仏教伝来

 紀元前3世紀。中国の秦は春秋戦国時代の覇者となりますが、その繁栄も続かず、項羽と劉邦らによって打倒されました。秦を打倒した両雄は相争い、項羽を破った劉邦は前漢を建国します。劉邦は中国にとって因縁の相手である北方民族・匈奴の征伐に動きますが、匈奴に敗北して多額の賠償金を支払うことになりました。匈奴はこれを軍資金として拡大路線をとり、同じく中国北方に存在していた月氏を中央アジアへと追放します。この月氏が大月氏となり、さらに一部は北インドに進出してクシャーナ朝を建国し、元来偶像崇拝を禁じていたはずの仏教において仏像等の仏教美術(ガンダラーラ美術)を許したため、仏教の世界宗教化が進むことになりました。


◆シーン2 晋の崩壊が生んだ高句麗

 紀元3世紀。中国では前漢を引き継いだ後漢が崩壊し、三国時代を経て晋が建国されますが、南匈奴の大反乱で首都が陥落し、南への遷都を余儀無くされました。これによって朝鮮北部の支配が弱まると、狩猟民族が高句麗を建国し、中国の拠点となっていた楽浪郡を攻め落としました。半島根元を押さえる高句麗の南下方針は朝鮮半島への脅威となり、部族連合国家の統一が進み新羅、百済、加羅が成立します。


◆シーン3 百済による仏教伝来

 新羅が加羅地域を制圧し、百済に対する圧力が高まると、これを警戒した百済が日本と親交を深めるべく、欽明天皇に仏像・経典を送ります。これが日本への仏教公伝です。日本では仏教受容を巡り争いが起こり、勝利を収めた仏教受容派の蘇我氏が実権を握りました。


◆シーン4 絶妙な対隋外交

 四百年ぶりに中国を統一した隋の文帝は高句麗打倒のために挙兵しますが、敗北して国力を低下させました。蘇我氏・聖徳太子はこの隋の窮地に遣隋使を派遣し、外交を有利に進めます。隋は二代目煬帝の時代に二度目の高句麗出兵を行いますが、出兵はまたもや失敗して反乱が起き、隋は唐にとって変わられました。


◆シーン5 隋唐と任申の乱

 唐は共通の敵である高句麗・百済を倒すべく新羅の手を取りました。唐・新羅連合軍は百済を打倒すると、百済再興のために挙兵した日本を白村江の戦いで撃破し、さらに高句麗を挟撃して朝鮮半島を制圧する。敗北した日本は危機感から防衛態勢の整備に努めますが、領土の接した唐と百済が内紛を起こしていたため、唐からの追撃は来ませんでした。
 日本国内では、親・唐路線と親・新羅路線の対立が起こりますが、親・唐派筆頭の天智天皇が崩御すると後継者争いという形で表れます。父天智天皇の意を継ぐ親・唐路線の大友皇子と、天智天皇の弟である親・新羅路線の大海人皇子の争い(壬申の乱)です。この戦いに勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、唐との関係を絶つために遣唐使を中止しました。


◆シーン6 渤海建国がもたらした遣唐使再開

 7世紀末、旧高句麗領に渤海が成立すると、唐に緊張が走ります。日本は、自身を最大限に売り込めるこのタイミングを見逃さず、文武天皇が遣唐使を再開しました。渤海は新羅を牽制するために日本への接触を計り使者を派遣しました。この使者は新羅領を避けて日本海を横断したため、出羽(秋田・山形)に到着しましたが、東北地方は蝦夷制圧戦の真っただ中でした。到着した出羽の拠点(出羽柵)も蝦夷討伐の最前線として設置されたばかりであり、使者一行も蝦夷により攻撃を受けます。渤海使者が天皇謁見を果たせたのはまさに紙一重のタイミングでした。


◆シーン7 藤原道長の奔放人事が活きた刀伊撃退

Q.刀伊襲来時の日本政権トップは?
Q.渤海滅亡時は何時代?

 10世紀初頭、中国北方に成立した遊牧国家・遼(契丹)は、渤海を滅ぼしました。渤海人の一部は海賊・刀伊となり、船団で九州を襲撃します。刀伊を撃退したのは、藤原道長に疎まれて偶然大宰府に左遷されていた武人肌の公家、藤原隆家でした。


◆シーン8 日宋貿易で栄えた平清盛

Q.平清盛が政権トップ時の中国王朝は?

 唐は軍人の内乱によって滅ぼされますが、唐に代わって中国を支配した宋は、これに学んで武力ではなく経済による統治を選択します。宋は契丹ら周辺国に贈答品を送る代わりに戦争を避けましたが、この方針は契丹を滅ぼした金に対しても続けられ、宋の財政緊迫を招きました。宋は財源を保つために経済発展を第一として実利的な貿易方針をとり、海外事情に明るい平清盛らと日宋貿易を行います。日本における平家繁栄の背後に存在したのが、日宋貿易によって得た豊富な財力でした。


◆シーン9 モンゴル襲来が倭寇を生んだ

 中国北方で起こったモンゴル帝国は、金、南宋を打倒して元を建国します。元は南宋の支配前後で二度に渡り日本を攻撃しますが、悪天候も幸いし、鎌倉幕府は元の撃退に成功します。しかし防衛戦では領土は増えないため、武士への報奨を十分に出すことができませんでした。これは鎌倉幕府への武士の不満を募らせ、討幕運動の一因となっただけでなく、生活に窮した武士は悪党となる原因となりました。悪党の一部は中国沿岸・朝鮮半島も含めた日本海沿岸一帯で略奪を行う倭寇となり、明代まで禍根を残すことになりました。


◆シーン10 大航海時代がもたらした鉄砲伝来

 大航海時代、ポルトガルは香辛料を求めて東南アジアに進出すると、絹を求めてさらに北上し、中国にも乗り出します。そこで倭寇と接点を持つと、倭寇を仲介として日本に訪れて鉄砲を販売しました。鉄砲に不可欠な硝石の輸入港である堺を確保した織田信長は、強力な鉄砲隊を編成して戦国時代に終止符を打ちました。


◆シーン11 ルターがもたらしたキリスト教伝来

Q.室町幕府滅亡と宗教改革はどちらが先?

 大航海時代は、イスラム圏を迂回した貿易ルートの開拓によって引き起こされたものですが、もう一つの背景としてカトリック布教の目的も存在しました。宗教改革により勢力を削がれたカトリックは、海外布教部門であるイエスズ会を結成し、アジアにおいて布教活動を行いました。イエスズ会は日本でもカトリック布教を行い、折良く既存勢力の寺社勢力との戦闘を繰り広げていた織田信長の庇護を受けます。


◆シーン12 ピューリタン弾圧が招いた日本開国

Q.江戸幕府の開国とイギリス絶対王朝の成立、どちらが先?

 絶対王政を確立した英国のスチュワート朝はピューリタン弾圧を敢行しました。これを逃れるべくピューリタンは新大陸に渡りアメリカ合衆国を建国し、マニフェスト・デスティニーの名のもとに西漸運動を開始します。西海岸にたどりついた産業革命後のアメリカ人は、機械油にかわる鯨油を求めて捕鯨活動を推進して太平洋に進出し、たどり着いた日本に開国を迫りました。


◆シーン13 南北戦争と明治維新

Q.南北戦争と明治維新はどちらが先?

 アメリカにおける南北戦争後に大量の在庫と化した銃火器は、日本在住のグラバーを介して坂本竜馬の手に渡りました。これが薩摩藩、長州藩にもたらされ、鳥羽・伏見の戦いで官軍側の武器として使用されることで明治維新に貢献します。