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5分で眺める日本史

 世界史を学んだ後にあらためて日本史を振り返ると、世界との繋がりを感じる部分が多々あります。これらのポイントについては、「世界史」の中の東洋史・日本史でご紹介しますが、その前提として日本史の流れをざっくりと整理すべく本ページをまとめました。

 旧石器時代、そしてそれに続く縄文時代には、人々は狩猟・採集中心の共同生活を営んでおり、大きな争いごとはありませんでした。しかし、縄文時代の後期、秦の徐福が来日した伝説もあるように、大陸から水稲や鉄器の技術が伝来すると、備蓄可能な米が財産として扱われるようになり、当初農具として使用されていた鉄器が武器へ転用され、土地や財産を求めて争い事が勃発するようになりました。  こうして集団間で戦争が勃発し、力を持つ者が周囲の集落を併合していくと、日本国内で大きな影響力を有する連合体として、邪馬台国や大和政権が誕生しました。さらに、大陸から仏教が伝来すると、仏教受容派(崇仏派)の蘇我氏が実権を握り、蘇我氏と手を結んだ聖徳太子が冠位十二階の制度を設けて国の基礎をつくりました。

 聖徳太子の死後、蘇我氏の専横が目立つようになると、中大兄皇子、中臣鎌足らが立ち上がり、蘇我氏を誅殺しました。中大兄皇子らは、土地と人民は天皇のものであるとして、人民に貸し与える代わりに納税の義務を負わせました。しかし、土地を耕しても自分の所有物にならない人民は、開墾に対するモチベーションを失っていき、やがて、開墾した土地を永遠に所有することを許す墾田永年私財法が制定されます。すると今度は、土地の税負担を逃れるために、免税措置のある貴族に土地を寄進して、より少ない負担で農耕を行うスキームが流行したのです。土地を得た貴族の力は増大していき、特に、中臣鎌足の子孫である藤原氏は、婚姻政策により天皇の近親者として振舞うことで大きな政治的影響力を誇りました。婚姻に頼る藤原氏の政治術は、天皇との婚姻関係を維持できなくなると急激に低下し、天皇側の院政により失脚します。

 また、貴族は、自分の土地を守るために、傭兵集団である武士に頼るようになり、武士の台頭を招きます。院政の結末として天皇と上皇の対立が起こると、勝利した天皇側に味方をした平家と源氏の率いる武士団が二大勢力となりました。そして、両者の直接対決である平治の乱において平家が勝利したことにより、平家である平清盛が武士として初の太政大臣となり、実権を握ります。

 その後、天皇・上皇から平家追討の宣旨を得た源頼朝が平家を討つものの、源頼朝は鎌倉幕府を開き、武士が政治の中心を担う風潮は変わりませんでした。朝廷側は鎌倉幕府の転覆を企て、一度は失敗するものの、元寇により幕府が衰退したタイミングを狙って再度挙兵し、足利尊氏ら武士の力を借りて鎌倉幕府を滅ぼしました。後醍醐天皇は自ら親政を試みますが、その内容は、武士を軽視したものであり、武士の反感を招きました。そして、足利尊氏は、後醍醐天皇を輩出した大覚寺統と対立関係にあった持明院統の天皇を擁立して挙兵し、室町幕府を開きます。後醍醐天皇は京都を脱して南に逃れ、皇位の正統性を主張したため、2つの朝廷が併存する南北朝時代となりますが、室町幕府3代将軍である足利義満の治世下で南北朝が統一されました。しかし、8代将軍の足利義政は、政治に対する関心が薄く、その後継者争いとして応仁の乱が勃発すると、室町幕府の力は急落し、諸国の大名が力をつけていきました。

 そして、戦国大名の一角である織田信長が足利義昭を京から追放すると、室町幕府は滅亡し、戦国時代へと突入します。戦国時代を制したのは、織田信長の配下にあった豊臣秀吉でしたが、秀吉は朝鮮出兵により国力を低下させます。豊臣秀吉の死後は、家臣であった徳川家康が豊臣家を滅ぼして実権を握り、江戸幕府を開きました。

 江戸幕府は、大名の力を削りつつ、朝廷に対しても規則を定めるなどして、強大な権威を誇り、300年近くにわたって続きました。しかし、米国の開国要求に際して朝廷の伺いを立てたことを契機に権威が失墜し、討幕運動を招くことになりました。