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「世界史」の船出
  〜大航海時代以降〜

 世界が一体化した大航海時代以降の世界史を、各年代の中心テーマに沿って10のシーンにまとめました。


◆シーン1 大航海時代の幕開け
◆シーン2 ハプスブルクの栄光
◆シーン3 ハプスブルクの凋落とブルボンの繁栄
◆シーン4 東欧・北欧の覇権争い
◆シーン5 プロイセンの台頭
◆シーン6 イギリスの対外進出
◆シーン7 ナショナリズムの息吹き
◆シーン8 グレートゲームから三国協商へ
◆シーン9 第一次世界大戦
◆シーン10 第二次世界大戦


◆シーン1 大航海時代の幕開け

 15世紀後半、アジアへの経路をオスマン帝国の勢力下におかれたヨーロッパは、香辛料を求めて、地中海を通らないアジアへの航海路を模索します。その中心となったのは、1492年にレコンキスタを成し遂げたイベリア半島に位置するポルトガルとスペインでした。
 スペインでは、女王の支援を受けたコロンブスが大西洋経由でアメリカ大陸へと到着し(1492)、16世紀前半にはコルテスがアステカ帝国を、ピサロがインカ帝国を滅ぼして南アメリカを征服しました。スペインはアフリカの黒人を労働力として南アメリカに送り込み、大規模な植民地経営を行うことで巨万の富を築きました。また、中南米から採掘された大量の銀もスペイン本国の経済的な支えとなりました。
 一方、ポルトガルでは、ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ南部の海路を経てインドへ到達すると(1498)、ポルトガルはアジアとの交易を開始し、香辛料の入手に成功しました。しかし、大量の流入によって香辛料価格は暴落し、その後ポルトガルは衰退の道をたどります。


◆シーン2 ハプスブルクの栄光

 1519年、ハプスブルク家の父親とスペイン王家の母親を持つスペイン王カルロス1世は、神聖ローマ帝国皇位を継承してカール5世となり、広大な領土を手中に収めます。その後、宗教改革が起きますが、オスマン帝国が西進して猛威を奮うと(ウィーン包囲:1529、プレヴェザの海戦:1538)、カール5世は1555年にプロテスタントとの和議(アウグスブルクの和議)を果たして引退しました。
 スペイン王位を継いだフェリペ2世の時代には、フランスとの間で行われていたイタリア戦争に勝利し、多くのイタリア都市を領土に加えました。更にレパントの海戦(1571)でオスマン帝国艦隊を破ったフェリペ2世は、1581年以降は香辛料貿易の衰退に伴い没落したポルトガルの王位も兼任し、イベリア半島全土を支配下におさめます。こうしてハプスブルク家はヨーロッパ、アメリカ、アジアにわたるに大帝国を築き上げ、「日の沈まぬ帝国」と呼ばれるほどの繁栄を遂げました。


◆シーン3 ハプスブルクの凋落とブルボンの繁栄

 かくして大帝国を築いたフェリペ2世でしたが、繁栄は長くは続きませんでした。新大陸からもたらされた富を浪費して重税を課し、更には新教を弾圧したため、新教派のオランダがスペインからの独立を試み、オランダ独立戦争が勃発しました(1568-1609年)。南部十州は懐柔に成功しましたが、毛織物の中継貿易を介してイギリスと良好な関係を築いていた北部オランダは、テューダー朝イギリスの支援を受けて抵抗を続け、独立を宣言します(1581)。また、スペインはオランダを支援するイギリスを叩くために、オスマン帝国をも破った無敵艦隊を派遣しますが、アルマダの海戦にてイギリス海軍に敗北します(1588)。
 一方、フランスでも同時期に新教を廻ってユグノー戦争(1562-1598)が起こりますが、戦争の最中にブルボン朝が誕生すると、新教派の王はカトリックに改宗しつつもプロテスタントを公認する(ナントの王令)という絶妙な采配によって戦争を収め、強力な中央集権国家へと発展しました。
 そして1618年、ヨーロッパ全土を巻き込む一大戦争が勃発しました。30年戦争(1618-1648)です。当初、神聖ローマ帝国内における新教推進派の弾圧から始まった30年戦争は、近隣のヨーロッパ諸国の介入を招き、新教・旧教の枠を超えた争いとなりました。  また、この戦争の最中、オランダはポルトガルと入れ替わるようにアジア貿易を推進します。1619年にはバタヴィアを拠点としてモルッカ諸島との交易を開始し、1623年にはアンボイナ事件により、モルッカ諸島からイギリスを駆逐しました。30年戦争はウェストフェリア条約によって終了し、神聖ローマ帝国は事実上解体となりました。
 なお、30年戦争の最中、イギリスでは新教同士の対立が起こり、国教会に弾圧されたピューリタン(イギリスのカルバン派)が北米に入植し、後のアメリカ合衆国建国への伏線となります。


◆シーン4 東欧・北欧の覇権争い

 三十年戦争の終戦と同年、ポーランド領ウクライナでコサックの反乱が起こると、北欧の覇権を巡る争いが始まります。ロシアがコサックの反乱を支持してロシア・ポーランド戦争が勃発(1654)すると、翌年には戦争の隙に乗じてスウェーデンがポーランドに侵攻し、北方戦争へ発展します(1655)。北方戦争の結果、ポーランド連合王国からプロイセン公国が独立してポーランドは弱体化し、また、ロシアは穀倉地帯であるウクライナの半分を手に入れ、ポーランドに代わって東欧の支配権を握ることとなりました。 さらに、1700年から始まる大北方戦争では、ロシア、デンマーク=ノルウェー、ポーランドが反スウェーデンの北方同盟を結成し、北欧の雄・スウェーデンに対して攻勢をしかけました。スウェーデンは奮戦したものの敗北し、バルト海の覇権もロシアに移ることとなりました。


◆シーン5 プロイセンの台頭

 大北方戦争の開始と同年、スペインではハプスブルク家の血筋が途絶え、後継問題が発生しました。これに目をつけたブルボン朝のフランス王・ルイ14世は、スペイン継承戦争(1701-1713)によって自身の孫をスペイン王に即位させます。
 一方、神聖ローマ帝国では中央集権が未だ確立されず、諸侯が分立する状態が続いていました。そしてオーストリアの女帝継承が問題になると、周辺国のプロイセン、ザクセン、バイエルンが反対を表明し、さらに反ハプスブルクを掲げるブルボン朝のフランス、スペインも便乗してオーストリア継承戦争が起こりました(1740-1748)。オーストリアはフランスと対抗するイギリスの支援を受けて奮戦しましたが、敗北し、領土の一部を失いました。プロイセンの勢力拡大を実感したオーストリアは、プロイセンと対抗するために宿敵であったフランスと同盟を結びます(外交革命)。1756年、オーストリアとプロイセンは再度会戦(7年戦争)しましたが、オーストリアが同盟を結んだフランスは前年から世界各地で始まったイギリスとの戦争に戦力を割いており、墺仏は共に1763年に敗北を喫しました。とくにフランスは北米の植民地をすべて失うこととなりました。これらの戦争により、プロイセンが墺仏と並ぶ強国へと成長します。


◆シーン6 イギリスの対外進出

 こうして墺仏が勢いを失う中、急成長したのがイギリスです。フランスが欧州で7年戦争を行っている最中、イギリスは各地でフランスと海外領土の争奪戦を繰り広げ、1757年プラッシーの戦いでインド(ムガル帝国)の支配を、フレンチ=インディアン戦争で北米の支配を確立しました。北米の支配を強固にしたイギリスは、新大陸に重税を課しますが、現地の開拓者達の反発を招き、アメリカ独立戦争が起こります(1775-1783)。
この独立戦争はヨーロッパにも大きな反響を及ぼし、フランスでは1789年のフランス革命(1789-)ののち、ナポレオンが支持を集め、1804年に皇帝に即位しました。ナポレオンは破竹の勢いで大陸を制覇し、イギリスを孤立させるために大陸封鎖令を発しますが、イギリスとの貿易を続けたロシアに対する遠征(1812-1813)に失敗し、1814年に退位しました。
 ナポレオンの失脚後、インド支配を強めていたイギリスは、更に中国の茶に目を付け、インドと中国の交易路確保を目指しました。1819年以降、シンガポール、マラッカ諸島、ペナン島を獲得して海峡植民地とします。また、アヘン戦争(1840-1842)を引き起こして中国との貿易を開始し、インド、中国との交易により莫大な利益を得ました。
 その後、ロシアは不凍港を求めて南下し、オスマン帝国との間にクリミア戦争(1853-1856)をおこしますが、ロシアの進出を恐れたイギリスは、フランス及びサルデーニャ王国と共にオスマン帝国側として参戦し、ロシアの南下を阻止します。以後、イギリスはロシアの南下阻止を目的としてグレートゲームと呼ばれる外交を展開します。さらに、イギリスは中国との間にアロー戦争(18561860)を引き起こして更なる貿易を促し、インド・中国利権を確固たるものにしました。


◆シーン7 ドイツ・イタリアの統一

 クリミア戦争を通じてフランスに接近したサルデーニャ王国は、フランスの助力を得つつ、イタリア半島への干渉の強いオーストリア勢力を駆逐し、イタリア半島を統一してイタリア王国を成立させました(1861)。
 一方、イタリアと同じく統一が遅れていた旧神聖ローマ帝国では、統一の主導権を巡り、プロイセンとオーストリアが激しく対立します。プロイセンの宰相ビスマルクは、フランス・オーストリアの保守協調が乱れたのを機に、普墺戦争(1866)によりオーストリアを打ち破り、主導権を握ると、普仏戦争(1870-1871)によりフランスに打撃を与え、オーストリアを除く諸侯でドイツ帝国を形成しました。さらにビスマルクは、フランスの反撃を防ぐべく、外交手腕を発揮してオーストリア・ロシアとの間で三帝同盟を結びました(1873)。
 この戦争の最中、暗躍していたのが統一を成し遂げたばかりのイタリアです。イタリアは普墺戦争の最中にヴェネチアを、普仏戦争の最中にローマ周辺領土を併合し、トリエステ・南チロル等の一部領土を除く現在のイタリア領土を形成しました。
 このドイツ帝国の成立に刺激されたイギリスは、インド利権を守るべく、スエズ運河を買収してインドへのルートを確保し、英領インド帝国を成立させました(1877)。


◆シーン8 グレートゲームから三国協商へ

 1877年、ロシアが再度トルコ方面へ南下し、露土戦争が起こりました。ロシアはオスマン帝国を破り、不凍港を手に入れかけますが、イギリス・オーストリアの猛反発を受けて頓挫します。ドイツ宰相ビスマルクは、三帝同盟内の軋轢を受けて、フランスからの自由主義波及を恐れるオーストリア、チュニジア支配をめぐりフランスよ争っていたイタリアを誘い、対仏を掲げて三国同盟を結成します(1882)。
 ドイツは、三帝同盟の解消後もロシアと個別に同盟を結んでいましたが、ビスマルク退任の後、ドイツはこの関係の更新を拒否します。ドイツとの同盟をあきらめたロシアは、新たなパートナーとしてフランスと露仏同盟を結びます(1894)。
 一方、植民地争奪競争の様相を呈していたアフリカでは、イギリスがアフリカ縦断路線、フランスはアフリカ横断政策をとり、両者はファショダにて衝突します(ファショダ事件:1898)。危うく英仏間の戦争に発達しかけますが、その翌年、両者にとって新たな脅威が誕生しました。ドイツが3B政策に沿ってバグダットの鉄道敷設権を獲得し、ペルシャ湾への進出経路を得たのです。
 これを英領インドへの脅威とみなしたイギリスは、普仏戦争時の領土奪回を目指すフランスと利害が一致し、英仏協商を結びました(1904)。また、イギリスはトルコ方面の南下政策を阻止されたロシアの極東進出に対抗して1902年に日英同盟を締結しています。イギリスの予想通り、ロシアは極東へ進出して日本と衝突し、日露戦争へと突入します(1904)。日露戦争はアメリカの介入により日本に有利な条件で講話が成立し、ロシアの極東進出は防がれました。日露戦争終結後、イギリスはドイツと距離を置き始めたロシアとの間で英露協商を締結し、この時点において英仏露の間のいわゆる三国協商が成立しました(1907)。こうして三国同盟vs三国協商という構図が出来上がりました。


◆シーン9 第一次世界大戦

 1908年、オスマン帝国で青年トルコ革命が生じてオスマン帝国に動揺が走ると、この混乱に乗じてオスマン帝国からブルガリアが独立し、さらにオーストリアはボスニア、ヘルツェゴヴィナを併合します。ボスニア、ヘルツェゴヴィナはスラブ系住民が多い国であったため、スラブ勢力の拡大を目指す「汎スラブ主義」を掲げる国々を刺激し、ロシアの主導下でセルビア、ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロらは反オーストリアであるバルカン同盟を結成すると、イタリア=トルコ戦争に介入し、オスマン帝国の領土を奪いました(第一次バルカン戦争)(1912)。しかし、戦後の領土配分を巡ってブルガリアとセルビア、ギリシャ及びモンテネグロとの間で争いへと発展し、バルカン半島に軋轢が生じました(第二次バルカン戦争)。
 こうしてバルカン半島で様々な勢力が対立する中、ボスニアの州都であるサラエボに訪れていたオーストリア皇太子夫妻がセルビアの政治組織によって暗殺されると、オーストリアはセルビアに対して宣戦布告を行います(1914)。汎スラブ主義を掲げるロシアはセルビアを支援し、ここに第一次世界大戦が勃発します。ロシアの参戦により三国協商に属するフランスとイギリスがスラブ側に立って参戦、更に日英同盟を締結していた日本も三国協商側に立って参戦しました。一方のオーストリア側にはドイツが参戦しますが、三国同盟に属するイタリアは、トリエステ島の帰属問題(未回収のイタリア)を巡ってオーストリアと対立していたため、三国協商側として参戦しました。また、同盟国側には、ロシアを宿敵とするオスマン帝国と、第二次バルカン戦争によりセルビアに敵意を募らせていたブルガリアも参戦しています。
 当初、ドイツは電撃戦でフランスを陥落させて東部戦線に力を注ぐ狙いでしたが、フランス軍の激しい抵抗に合って西部戦線は膠着し、対仏、対露の二つの戦線を抱えて苦戦することになりました。東部戦線は革命が起きたロシアと停戦したことで収まりましたが、アメリカが三国協商側として参戦したことにより戦況は大きく協商側に有利となり、ベルサイユ条約により停戦が行われました。


◆シーン10 第二次世界大戦

 第一次世界大戦の惨禍を目の当たりにして、世界は秩序を維持するために国際連盟を結成しました。しかし、国際連盟の提唱者であり、世界最大の軍事力を有する国でもあったアメリカは、国際連盟に参加しませんでした。そして、アメリカを発端にした大恐慌が起き、大国が本国と植民地を活用したブロック経済圏を敷くと、ヒトラー率いるナチスが実権を握るドイツ、ムッソリーニが率いるイタリア、大政翼賛会が主導する日本等、植民地を有さない国々は領土拡大に乗り出しました。
 ドイツが軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合し、1939年、ソ連と共にポーランドを占領・分割すると、英仏がドイツへと宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発しました。ドイツは電撃戦でフランスを撃破すると、イタリア・日本と三国同盟を結び、イギリス本土へも攻撃を開始しました。しかし、イギリスとの戦線を抱えたままソ連への侵攻を開始すると、同盟国側は戦況が悪化し、アメリカの参戦により英米を中心とする連合国側の優位が決定的となりました。イタリアが降伏した後も同盟国側は抵抗をつづけましたが、連合国軍がフランスへ上陸すると、ついにドイツも降伏し、ヨーロッパ戦線は連合国側の勝利に終わりました。ヨーロッパ戦線の終結後も、アジアでは同盟国側として日本が中国・米国を中心とする連合国相手に抵抗を続けていましたが、原子力爆弾の投下、ソ連の対日参戦表明を契機として降伏し、第二次世界大戦に幕が降ろされました。