世界が一体化する大航海時代以前の世界史を、地域間の相互作用に着目して6つのシーンにまとめました。グラフィカルな説明も取り入れた下記「DWM(Dynamic World Map)版」も合わせてご覧いただけますと幸いです。
「世界史」への道のり(DWM版)
◆シーン1 〜アレクサンドロスの東方遠征〜
◆シーン2 〜漢vs匈奴がもたらす二つの波乱〜
◆シーン3 〜イスラム圏の誕生〜
◆シーン4 〜中央アジアのトルコ化〜
◆シーン5 〜大激震・モンゴル襲来〜
◆シーン6 〜イスラムの覇権から大航海時代へ〜
古代四大文明はとうに滅んだ紀元前4世紀。これは中国が春秋戦国時代の最中、ローマによるイタリア統一も果たされる前の出来事です。世界各地が諸国分立の時代を迎えていた中、いち早く大国家を築いたのはギリシアのマケドニア王国でした。アレクサンドロス率いるマケドニアは隣国のアケメネス朝ペルシアを打倒(前330)して東進すると、インダス川まで版図を広げ、ギリシアからインダス川流域までを支配する大国家となりました。
しかし、マケドニアの攻撃に触発されたインドではマウリヤ朝が成立し(前317)、インダス川流域を奪回します。また、アレクサンドロスの死後、マケドニアは分裂し、中央アジア地域からはバクトリア(前255)が、西アジア地域からパルティア(前247)が独立しました。
その他のマケドニア領土は、イタリア半島統一を遂げて急速に成長したローマに飲み込まれ、西アジアではローマとパルティアが争う構図が長く続くことになります。ローマはカエサルの台頭を経て共和制から帝政へと移行していきますが、カエサルのライバルであったクラッススが命を落としたのもパルティアとの戦争でした。
前206年、中国で初の長期統一国家・前漢が成立します。建国者の劉邦は北方民族の匈奴との戦いに挑みますが、敗戦して捕虜となり、多額の賠償金を支払いました(前200)。これにより勢いを増した匈奴は中国北西部に住んでいた月氏を撃破し、月氏を中央アジアに追いやりました(前2世紀前半)。
しかし、おごれるものも久しからず。武帝(前156-前87)の時代には、前漢が匈奴戦線での勢いを取り戻し、領内から匈奴を駆逐しました。
一方、匈奴に敗れて西方に追いやられていた月氏は、中央アジアへと移動していました。そして当時バクトリアに代わって中央アジアを支配していた大夏(トハラ)を征服し、大月氏と呼ばれて栄えます。また、大月氏の一部はインドへと侵入してクシャーナ朝を建国し(1世紀)、ローマとの貿易によって繁栄しました。しかし、西アジアでパルティアに代わって強力なササン朝ペルシアが成立すると(226)、クシャーナ朝はササン朝の勢いに抗しきれず滅ぼされ(375)、インドの主導権はササン朝と友好的なグプタ朝に移ります。
そしてクシャーナ朝滅亡と同年、今度は武帝が追い払った匈奴の末裔と思われるフン族が東欧に出現し、ゲルマン人の大移動を引き起こします(375)。ローマ帝国はササン朝との戦いを有利に進めるためにゲルマン人を領内に取り込みますが、やがてゲルマン人の台頭を抑えきれなくなり、東方のコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に遷都して東ローマ帝国(ビザンツ帝国)となり、ササン朝と対抗しつつ勢力を保ちました。一方、ローマ帝国の西側領土は西ローマ帝国として切り離され、ゲルマン人により滅ぼされました(480)。
550年、中央アジアで急成長した遊牧民エフタルは周辺国への圧力を強め、グプタ朝を滅ぼします。エフタルの脅威を前にしたササン朝は、モンゴル高原を支配していたトルコ系民族の突厥と同盟を結び、エフタルを滅ぼしました(565頃)。そしてササン朝は最盛期を迎え、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)と争い合う大国へと成長します。こうして西アジアを舞台にビザンツ帝国とササン朝が争う中、戦火を避けて西洋と東洋を結ぶ交易路としてアラビア半島が栄え、アラビア半島ではイスラム教が誕生しました(610)。イスラム勢力はイスラム教を広めるべくジハート(聖戦)を展開し、中東に進出してササン朝ペルシアを滅ぼします(642)。ササン朝の争いが契機となって生まれたイスラムによってササン朝が滅ぼされるとは数奇な運命です。
また、イスラム勢力を束ねたウマイヤ朝は西欧にも攻め込みます。この侵攻はフランク王国によってピレネー山脈で阻止されますが(732)、イベリア半島はイスラム勢力下となりました。さらに、ウマイヤ朝に代わってイスラム世界の覇権を握ったアッバース朝(750)はアジア方面に攻め込み、唐に勝利して中央アジアでのイスラム勢力を拡大しました(751)。
9世紀、中央アジアで大規模な民族移動が起こります。突厥に代わってモンゴル高原を支配していたウイグルの滅亡(840)を機に、騎馬のエキスパートであるトルコ民族がモンゴル高原から中央アジアに移動してきたのです。唐を支援していたウイグルの滅亡により、中国本土の支配権も及ばなくなっていた中央アジアは、トルコ民族にとって新天地であり、トルコ民族は中央アジアで繁栄しました。そして、この地に浸透しつつあったイスラム教とトルコ民族が融合し、セルジューク朝らのトルコ系イスラム国家が成立します(1038)。
セルジューク朝の勢力は著しく、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の救援要請に応じて西欧諸国から第一回十字軍が派遣されました(1095)。以降、西欧諸国は対イスラム戦線の巻き返しを図って幾度にも渡って十字軍を派遣することとなります。
12世紀、北アジアの雄・モンゴル民族は、チンギス・ハン(1162-1227)の下に大勢力を形成し、周辺国家を制圧しました。また、第四回十字軍の攻撃によってビザンツ帝国が途絶えると、その隙を縫うようにバトゥ率いるモンゴル軍が西洋を攻撃し、各地を蹂躙します。
さらに、チンギス・ハンの孫であるフラグが、かつて北アジアでライバルであったトルコ民族率いるイスラム国家を次々と制圧しながら、当時のイスラム最強国家・マムルーク朝に迫ります。激戦の末、マムルーク朝はこれを見事に撃退してイスラム圏を防衛しました(1260)。
また、モンゴルは、東方では宋を倒して中国全土を制圧し、元を建国しますが(1271)、日本への侵攻は失敗し(1274・1281)、徐々に勢力を失っていきました。
13世紀後半以降、モンゴルの侵攻が落ち着くと、イスラム勢力として二つの強力な国家が誕生しました。一つは、ニコポリスの戦いで西洋の連合軍を撃破した中東の巨星・オスマン帝国(1299)。もう一つは、モンゴルの流れを汲むハイブリッドイスラム国家・ティムール朝(1370)です。両雄は西アジアで激突しました(アンカラの戦い:1402) 。
この直接対決はティムール朝が制しますが、オスマン帝国はその後勢いを取り戻し、イスラム勢力の宿敵であったビザンツ帝国を打倒しました。一方、ティムール朝は、明への遠征に向かう途中で建国者ティムールが逝去した後は勢いを失い、ティムールの子孫はインドに侵入してムガル帝国を建国しました(1526)。
こうして時代は西欧とオスマン帝国との大規模な対立が主軸となり、戦火を避けた新たな交易路を求めて大航海時代へと発展します。そう、約1000年前に、西欧とササン朝の争いがアラビア通商圏を生み、新たな時代をもたらしたように…。